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日報2022-11-09 生活と制作

November 09, 2022

寒くなってきた。冬やね

もう11月である。6月に福岡に越してきてもう5ヶ月か。はやいな。何かをしているようで、何もしていないような感じもする。少しづつ何かをしていたり、何もしない時間を挟んで何かをしたりするのだ。生活や制作などだ。

大学で言うところの前期は降ってくるタスクという意味での仕事はほとんどなく暇で、そのかわりICCでの展示など自分の活動に時間を割くことができた。8末に展示が終わってからは、これからどうしようかな、とポカンとしたり、ポカンとしながら読んでない本を読んだりもした。一方で、やろうかな、と思っていることをちまちま地味に続けてもいて、ちょっとした回路のモジュールを作ったりプロトをつくったりみたいなこともやってた気がする。あとそうか、いくつかコンペ出すために5月の展示の作品をまとめた。9末締め切りのものがいくつかあって、かつ研究費の助成みたいなのも書いてたので(結局出せなかった)なんだかんだバタバタしてたのかもしれない。

記録映像を編集した流れではずみがついたのか、10月に三脚を買い映像を撮って公開した。三脚はあると便利。これについてはそのうちちゃんと文章を書きたい。音楽や制作、生活、インフラなどについて、ここ最近思っていることが現れたものになっていると思う。自宅の玄関とトイレの照明のスイッチをリレーにつなぎ、ライヒのクラッピングミュージック(またか!)を演奏する。人間が介在しない自動演奏装置のようでもあり、自宅に組み込むということのパフォーマンス性みたいなものもある。電工二種をとっていてよかった。とっていても何らかの何かに触れている可能性はあるのだが・・・。怒られたら嫌だな。

もともとは5月の展示で「再演のための装置」として展示したものが下敷きになっていて、「音楽作品として作曲された作品を、装置をつくるという行為によって再演する」というもので、パフォーマンスとしての制作とか、再解釈された音楽としての装置、みたいなことを考えていた。自分は音楽の人ではなくて、音楽のことを考えながらもいわゆる音楽はやらない、というスタイルなんだと思う。音楽というものはもう既に存在しないと考えているし、まず音楽なんてものはないのだと思ってからそれぞれの音楽について考えていくということが大事なのではと思う。

そんなこんなで、住んでいる自宅に音楽を据え付けることで、制作と生活というものについて考えた。炊飯器がないから鍋で米を炊いたり、安い肉を多量に買って冷凍したり、洗濯機を回している間に洗い物をする、というようなことこそが制作のプロセスである、ということを最近考える。酒のんで寝たりもする。そういう生活空間と、閉じられたコンサートホールやスタジオ。部屋の窓を開けると、車の音や風の音が聞こえる。電気がついたり消えたりするのが外から見える。

電気は現在最も重要なインフラのひとつだ。それは世界的にそう。それはとても社会的なものだ。われわれは普通、電気はあるものだ、と思っている。今日ふと机の上にあった三輪さんの本の裏に書いてあった文章が目に入って、ああ、これだよ、と思った。引用しよう。長いや。

コンピュータ音楽であれメディア・アートであれ、「装置を使った(芸術)表現」について何かを語る際に、ぼくらは、ある装置を電源コンセントにつなぐことから始めているという事実に注目しようとはしない。またさらに、その「コンセントの向こう」には、つまり電力が安定的に供給される背景には、地球浮彫のエネルギー問題、たとえば原子力発電所、核問題、石油の利権、投機マネーはもとより中東戦争に至るまで、グローバル化した世界のあらゆる難問が果てしなく連なっていることを意識することはまずないはずだ。もちろんそんなことを考え始めたら、「装置を使った(芸術)表現」どころか、平穏な日常生活でえ不可能になってしまうので誰も「言わないことにしている」わけだ。しかし、だからといってそれが現代の音楽・芸術が直面する未曾有の状況と無関係だと言える理由にはならないだろう。いや、それどころか現代に生きるぼくらの価値観や世界観、そしてひとりひとりの心のありようにこの現代社会の複雑な状況が深く結びついていないはずなど無いのだ。(三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八-二〇一〇 「目次の前に」より)

三輪さんは直接お会いしたことは無いのだがその作品や文章、過去のインタビューなどから多分に影響を受けている、ほんとにすげ〜!と思う。

もうひとつ最近読んだIAMASの紀要の文章で刺さったのがあって、三輪さん・城さん・松井さんの三人で話しているやつ。作品というのは大概ゴミであり、作家の仕事はそれをゴミでは無いと言い張ることだ、というようなことで。そして、そのためには先ずゴミを作らなければいけない。このところ(ずっとか?)ぼんやりピーピーだったので、ぐっと拳に力入った。

後期は前期暇すぎたせいか、色々なひとから少しづつ仕事を振られるようになり、そこに別の仕事もちょうど重なって謎の忙しさをみせている。とはいえそこまででもないのだが。一時期よりコロナも落ち着き、福岡にも色々なひとがくるようになった。最近あった何人かの人に作った映像をみせるとけっこう面白がってくれる、というか、面白がってくれそうな人にみせると面白がってくれる、というのが正しいか?長年自分をやっていると、割と自分のやることがわかってくるので、なんだか自分に飽きてくる。自分で自分のことを面白がれなくなってきたとき、他人に自分を面白がっていただくというのはとても有効なことのように思う。そしてそういう人が身近にいるというのはとても恵まれたことですよ。

残機が減ったり増えたりする日々だ。がんばろう。


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